昭和三十九年十一月十七日 朝の御理解
一つの願いを立てる信心をさせて頂けば、そこに願いの中心というものが必要です。その一つの願いを立てさせてもらい、その一つがどうでも成就のおかげを頂かなければならないと。それはそして信心の程度によって、その願いは違ってまいりましょうけども、その願いがどうでもこうでも成就のおかげになるために、私は一つの実践をしなければいけないと思う。
さまざまな決心がそのありましょうと思いますけども、これならば必ずこれならおかげになるという決心がある。このこと一つ、このこと一つのことだけは、どうでもこうでもおかげ頂かなければならない。そういう願いをお互いが立てる。願いを立てたらやはりその願いを立てただけの信心が必要である。それには一つの決心を立てなければならない。この願いの成就までは、朝参りを続けますと、こういう修業を致しますといったようなそのまあーそれもなからなきゃならん。けども、それは場合によっては私どもその間違う場合がある。神様が果たして朝参りなら朝参りだけを願うておられるという事じゃない場合もある。さまざまな修業というものがです、やはり神様がお受けにならない修業すらあるのですから。
しかし、これだけこれならば、おかげになると。心ほど、私はさまざまな事を思うたり感じたりできる。もう自由自在に使えるのは心だとこう思う。良くも使えば、悪くも使える。
昨日、高橋さんとこの奥さんが毎日こうしてお参りに見える。昨日ここでお届けなさるのに、先々日から椛目のことで、高橋さんまあー掛り切りであった。一昨日もそんなわけで朝のご祈念の時間から夕方までおられた。そしてお家の方はその中心がおりませんから、いろいろ困った事があった模様でございますけれども、先生、主人とこちらにおかげを頂いて御用させて頂いております。本当に久しぶりにお店の方に活気が出ておりますとこういうわけです。おかげを頂いて有難いとこう。ところがその事です。いうならある人は例えば番頭さんなら番頭さんがです、大将がおらんけん困る。こげん忙しかつのにおらんからというような、頂き方もあるということです。例えば奥さんは主人が椛目に出て御用頂いてくれておるから、おかげで店の方に活気のある一日としてお使い回し頂いて有難しとこう頂いておられる。ところが他のある方はです、本当にこの忙しいのに金光様金光様ばっかり言うてからとそれを困った風に取っておるということですね。
ですから頂き方は、さまざまだという事です。それは本当なことが分からないからそういう事になるのですけれども、もちろんだから本当のことを分からして頂くということは、とても私どもにはむつかしいのです。実を言うたら、どういうご神意、どういうお知らせがあるやら分からんのですから、例えばただ今のことでもそうです。ならお参りをしておって、かえって商売が繁盛しなかったという事があるかも分かりませんからね。ですから本当な事をその事によって分かろうとする事は実にむつかしいこと。けれどもそこをどうであっても、その心の中にです神様の御都合に間違いない。神様の御都合だろうと、そこでどのような場合でもです、それをおかげと頂き喜びで頂くということ。言わばそういう決心するという事です。
一つの事を本当に願い、一つの事がどうでも成就しなければならないという一つの願いを立てたならですね、私の心を使えばどのようにでも使えれる。けれどもそれはどのような場合でも、それを喜びで有難しと神様の御都合であろうとか神様の御都合に違いないとかという心を、その心一つで受けていこうという決心。この方の道は喜びで開けた道だからと仰る。だから喜びでは苦労はさせんと仰るのであるから、一切を喜びで受けていこうという決心。それを疑うたりね逆うたり、ために迷うたりという心には、使いませんという決心。ほんなこちゃあるじろうかと疑うたり、そのために迷うたり、そのために逆らうというようなことは致しませんという決心。 ですからまー言うなら椛目の信心を頂いて、そこに一年なり二年なりして本当に体験頂かなければここんところの決心はつきますまいと思いますけれども、もう椛目の皆さんなら決心はつくと思う。なるほどこの神様は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんと仰るがそういう頂き方さえすりゃおかげが頂ける体験だけは、私は持っておられると思う。私は椛目の方達はですから問題は、どういうことでもその決心で受けるという決心をその事一つにです心を使うていこうとする決心をすることだと私は思う。この辺がですね、私、そこが分かっておりながら、愕然としておるような場合がないだろうかと思う。そげん喜びだけじゃ受けられないと言うて、はっきりしたわけじゃないけど、そこが漠然と頂いておるもんですから、一日のこと振り返ってみても有難たく頂こうと思や、有難く受けられんこともある。腹立ちで受け取ることもありゃ、疑うて受け取ることもあるといったような日々をお互い過ごしておるような事はなかろうか。分かっておりながら決心がそこに、そこに心を絞ってないから。
昨夜のご祈念に、ここの近所の方ですけれどもお参りになった。時々お参りをしてくる。夕べの御理解を頂ながらです、本当に涙ながらにここでお礼を申されるんです。先生もう今晩のお参りは本当におかげ頂きました。私は今晩お参りをせずに、又今夜の御理解を頂かんでおったら、私はどういうような事になっておったろうかと思うてヒヤッと致しました。今晩の御理解、御理解が言わば私を助けて下さったというような意味のことをお届けなさるんです。その方達は大変大きなお百姓さんであり、その柿とか果物とかなんかもたくさん作っておられる。もうそりゃ本当にあれだけ持っとってから、あれだけ一生懸命働かにゃというごと働きなさる。そこに今の嫁さんなんか全然百姓した事もないとに、そこに嫁行って見えてから、もうそれこそ百姓も本当にしなれただけじゃなくてから、その中心になって今真っ黒になって百姓しよんなさる。
ところがです、最近はもう本当にどうしてこげな苦労せんならんじゃろかと、人間関係の中に、もうその事がねもうそれこそ遺恨に遺恨が重なるようなことがこの頃続いておりますという。例えば今日も今日とてこうでございましたと言うて話されるわけなんです。私どもの里の妹がある時参りました。私も丁度留守にしておりました。それで今みかんの収穫時で、みかんをいっぱいちぎってある。それをその主人の兄妹がこの頃からちょいちょい見えてから、みかんを貰いにきた。柿を貰いにきたと言うてから、柿やらみかんやら、その言やみかんだけでよかちまあー柿までそえて、なら柿だけでよかちまあーみかんだけでよいのにさあー米までそえて、そのお母さんでもお父さんでも、その自分の娘やら息子とこにやんなさるとこう言うわけです。
そりゃ私に一口相談してもらおうと思わんけど、そのそれこそ隠れるようにしてやられる。ところが、私どもの兄妹が参りましてもこれこそ、みかんいっちょことずけなさらんと言うのです。もうその事だけじゃございません。実はこうこうと言うてから、そのそれがねもうそれが遺恨に遺恨になっておる。もう今にも爆発するごたる思いであったところに、夕べ参って見えられた。そして私申しました。そりゃ○○さん良かったねと私。もう例えばですよ、こりゃ嫁御の里から来とるけんで義理や人情でどんでお土産やらことずけなさるごとある。そういうたとえ欲の深い人ならです必ずそれに不浄がかかるに違いはないて。もうそげなめぐりのかかったもんば、もらわんだって良かったと思いなさいと私。ほんに先生そげな頂き方がありましたねて昨日言われるわけなんですね。
みかん例えば一つ一つさげどん一包みでんもろうちから、やろごとなかばってんち言うごたる不浄の、言わばそこの家のそういうめぐりの思いのかかったもんどん貰わんでかえって良かったという気持ちになんなさいと。お互い信心させて頂くとです、さまざまな意地やら何やらですたい何か知らんけども、どちらも意地づくで意地張りでです、その意地が意地に重なってです何かの時に爆発するような事があると。例えば一つの問題が、夫婦ゲンカでも親子ゲンカでも同じ事。その事だけで夫婦ゲンカになったり、親子ゲンカになったりする。もうそれこそ、言うなら遺恨に遺恨が重なっとって、お互いが辛抱しておっとたのが何かの場合に、爆発するから言わばケンカになったりするのだと私は申しました。
信心させて頂く者は、その遺恨もなければ意地もないといやあるのはあるけれどもです、その遺恨と思うようなこと意地にも思うような事柄がです、もうその都度その都度にはあー思うてんで、こりゃおかげであったと、おかげにしていくというところにです、なーあにもないていかに表面は穏やかな様にあってもです何か相手の心を刺すようなことを言うたりしたりしておるような事がいつのまにか重なっていっとる。それが爆発の言わば元になってしまうのだと。だからそういうような小さい事柄でもです、それを日々そればおかげにしていき、喜びにしていき、神様の御都合だとこれを有難い方に頂いていかなければいけない。そういうような御理解を夕べ頂いとったんです。今日の御理解を頂いてなかったらです、もう本当に大変な爆発をするところでしたけれども、おかげを頂いたというて帰られた、ね。
ですからそういうような、そういうようなですか、頂き方がですね、私どもが本当な事が分からん。例えばみかん一つが柿一つがのことが、不浄がかかるやかからんやら分からんのだけれどもです、もう本当のこと言うたら、どういう又大きな神様のご神意がその中にあるのか分からんのだけれどもです分からんのだけれども、さあー一つの事をお願を立てたらです一つの発心をする。この発心なら絶対その事が成就しない事はないということの中に、さまざまな修業もあるけれども、この願いを立てておる。どうでもこうでもこの事をおかげを頂かなければならんという切実な、止むに止まれん願いを立てたならですばです、このところにこの修業をさせて頂く。一切をそしてどげなこつ腹の立つような問題があっても遺恨に思わねばならん事があってもです、それを喜びで受けていこうという一つの決心をなさるならば、これはもう必ずその事が成就していくだろうと私は思う。
大石蔵の助が、主人の仇を仇討ちを思い立ってある時、何十何名の人達が決心をした。そしてその一つの大石蔵の助の一つのベースというものがある。その中でその忍びに忍び辛抱に辛抱し抜いていったね。例えばそれはまあーこの信心で言うならば、こういう大きな願いがある。これは本懐を遂げなければならんという止むに止まれんその願いの中心がですね、例えば今申しますように、一切を喜びで受けていく。行こうという決心をしたように何かの決心があったに違いはないのですよ。そこにねもう思いもかけない伏兵があったかと思うと思いもかけない影の援助があったという事です。そして一つの願いが成就したようにですね、それはまあー芝居やら映画で見るようなわけにはまいりますまいけれども、信心の場合これは絶対のもの。絶対のこと。一つの願いを立てる。起きてくる一切の事柄をです、それをおかげに取らしてもらうということ。それを喜びで受けさせて頂くと。それは本当のことは私どもには分からないね。けれどもそれは喜びで受けて、神様の御都合に違いはないという頂き方は間違いではないということ。
そこにです私は教祖が仰る。この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんとこう。この辺は私ども本当のことは分かりませんけれどもです、喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせんと仰るのであるから、これは喜びで受けるためには、どう受けていったらいいかというところに焦点を置いてです、そこに私は決心をする。そこに何か知っている皆が椛目に通うておるほどしの人ならば知っとるけども、それがですね漠然としとりゃせんかと言うことですね。一日振り返ってみると、その喜びで受けたり、腹立ちで受けたりといったような事が漠然としとりゃせんだろうかと。だから私はその喜びで開けた道が開けかかりよると。今度は喜びでない方で受けておるから、又それで喜びの道が消えていきよるような事はないだろうかと言うことです。
夕方そのお取り次させて頂きましたその娘さんの話じゃないけど、高橋さんの奥さんのその話じゃないですけど、自分の心ほど、どのようにでもなるという事。今まで遺恨に遺恨に思っておった事柄がほんに先生そうでしたね。私のこの汚い心の不浄の掛かっておるもんどん自分の里に持ってやってもらわんで良かったという心があるかと思や、ほんなこてみかんの少しやったっちゃ良かったろうもんにというような思いとがあるでしょうが。お父さんのおらなかった。この忙しいかつにおらんから本当にもう困るという頂き方もありやです。椛目に御用頂いてくれてるおかげでお店にこんなに繁盛のおかげを頂いておるという喜び。いわゆるお礼参りさせてもらわにやおられんようなものさえなっておるでしょ。同じ事柄ですよ。同じ事柄一つでもです。そういう風にしてさまざまに頂かれると、片一方の頂き方はおかげの受けられない生き方。必ずそれは又問題が問題をよんでいく生き方。ひょっとするとその家庭騒動の元にまでなっていこうとする在り方。片一方は繁盛のおかげを神様下さろうとしておるのに、その繁盛の道をふさいでしまうような頂き方。いよいよ繁盛が繁盛になっていくような受け方。そう変わっていくんですから、お互いが願いを求めないものはないでしょうが。
特に一つの大きな願いなら願いを立てたら、最後です、そんならそこに必ず一つのやはり信心が思い立たれなければならないという事ね。これだけ間違いという事なんです。どのようなささやかな事でも、それをどっこいと言うて受けなければならない。問題であっても、それを神様の御都合に違いないと例えばそれを喜びで受けていくということに、私は心を絞り決心し、そこそう使うて行くことに腹を決めましたというような、私信心をさせて頂いたら、いよいよねお道の信心の有難さというものがはっきりしてくるのじゃないかという風に思うんですよ。おかげ頂きました。